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【アラベスク】  第11章 彼岸の空



第3節 湖面の細波 [6]




 当然だ。なぜ一介の高校生ボランティアごときがわざわざ滋賀まで出向くのだ?
 母親が眉をひそめてもおかしくはない。
 どうしてツバサが行くのだ?
 だが、そんな態度はツバサにとっては予想の範疇(はんちゅう)
 その子は自分をとても信用してくれていて、自分の親の様子を見てきて欲しいと頼まれたのだ。
 だからと言って、何も学校を休んでまで出掛ける事はないだろう? 週末にでも行けばいい。そもそも、一人で滋賀までの遠出など、母親としては心配だ。
 その子の親はデパートの店員をしていて、休日は逆に休めない。デパートで働いているところを見てきてもいいが、その子としては自宅の様子が知りたいのだとか。唐草ハウスのボランティアの人と二人で行くから心配はない。
 じゃあ、そのボランティア一人で行けばいいだろう。
 そこでツバサは一呼吸置き、母の顔を真正面から見据えて答えた。
「断ったら、その子の信頼を失う事になるのよ。せっかく今までお相手してきたのに、下手に信頼を失ったら私のやってきた事そのものが認められなくなる。いざという時には役に立たないって噂されるかもよ」
 母には効果覿面(こうかてきめん)だった。
 慈善事業は我が家の体裁を保つ為。好都合なイメージを植えつける為。自分達のような上流階級の人間は、時として恵まれない人間のお相手をしてやらねばならない義務があり、義務を果たしていると世間に理解してもらえるよう、わかりやすく振舞わねばならない。
 そう公言して憚らない母にとって、ツバサの行動に傷がつくのは避けたかった。
「仕方がないわね。学校へは私から連絡をしておくわ」
 ツバサは、胸の内に気持ち悪さが広がるのを感じた。
 嘘をついた事に対する罪悪感もあったが、それよりも、唐草ハウスで過ごす者の存在を自らのイメージアップの材料くらいにしか考えていない母の思考が、ツバサにはどうしても納得できない。だが、今のツバサにはそれに真っ向から反論できるだけの力も智恵も持ち合わせてはいない。
 遣る瀬無い思いで、それでも滋賀行きを許してもらえた事に安堵し、短く礼を言い、母の傍を離れようとして、その背中を呼び止められた。
「何?」
 振り返る先で、母はセカンドバックから紙切れを二枚取り出した。
「一日中、唐草ハウスの子供の親の動向を監視するワケでもないんでしょ? ちょっとついでに寄ってきてもらいたいところがあるんだけど」
 取り出したのは、延暦寺の拝観料も含まれた、ケーブルカーやらシャトルバスの回遊券だった。



「なんかお母さんね、十月か十一月に友達から比叡山に紅葉を見に行こうって誘われてるんだけど、比叡山って結構道が険しいらしくってね。あんまりハードだと行きたくないからって、下見してきてくれって言うのよ。回遊券はね、本当は使用人に下見をお願いしようとして用意したチケットなんだって。別に私一人で行ってもいいんだけど、このチケットって結構な値段なんだろうし、一枚を無駄にするのももったいないかなと思ってさ」
「だからって、何で私を誘うワケよ?」
 自宅謹慎で暇してるから?
 そんな嫌味を含めた美鶴の問い掛けに、ツバサはあっさりと答えた。
「滋賀行きの事知ってるの、美鶴だけだから」
 ……… なるほど。
 あまりに的確な答えに、納得せざるを得ない。
「学校休むんだから、他に誘える相手もいないでしょ。比叡山へ寄ってくれるんだったら、旅費くらいは二人分まとめて出してくれるってお母さんは言ってるし、行かない?」
 太っ腹な事で。
 捻くれた美鶴ですら素直に認めてしまうほどの単純な理由を提示され、それでも美鶴は素っ気なく答える。
「別に、滋賀に行く必要もないし」

「必要がなければ、シロちゃんに会わないの?」

 数時間前、ツバサはそう言った。
 今度もまた責めるような言葉を返されるかと思っていたが、ツバサはこれまたあっさりと笑った。
「だよね。わざわざ意味もなく滋賀まで遠出したいなんて、思わないよねぇ」
 アハハハッと笑われると、なぜだか無償に腹が立つ。
 別にいいじゃん。滋賀になんて行く必要もないんだし。
 ツバサは兄の手掛かりを探しに智論さんと会うだけで、兄探しは私には関係ないんだから。
 だが、そこで美鶴は軽く瞠目する。

「美鶴、あんた霞流って名前、知ってるでしょっ?」

 ツバサの兄の失踪に、霞流さんも関わっているのかな?

「知れば、あなたはきっと、もっと苦しむ」

 智論さんは、何を隠しているんだろう?

「美鶴もさ、少しは自分の気持ちを出してみなよ」

 自分は、どうしたいんだろう?
 目の前で、大きなバケモノがうねっている。緑色で、異臭を放ち、グルグルと同じところを巡っている。自分の人生などどうでもいい。先などない。未来などない。霞流さんなんてもう関係ない。そう思っていた。
 もう誰とも関わらない。もう誰も好きにはならない。そうすれば惨めな思いなどせず、誰かに嗤われる事もない。そう決意したはずなのに、自分は再び同じ場所に戻ってきた。
 グルグルと同じところをまわっている。出口のない、不安定な世界を蠢いているおぞましいバケモノ。自分の身の内に潜み、自分を苦しめる。
 それとも、自分自身がバケモノなのか?
「やっぱ、行こうかな」
「え?」
 私って、つくづく馬鹿だ。
「暇だし」
 しばし沈黙が漂い、やがてツバサが恐る恐る問いかける。
「マジで?」
「私はいつでも真面目です」
 その言葉に、一拍置いてツバサが大声をあげた。
「マジで? 良かった。実はさぁ、ちょっと不安だったんだよね。小窪智論さんっていう人がどういう人なのか、私は全然知らないわけじゃん。いきなり会ってくださいって言ったのはこっちなんだけどさ、実際どんな顔して会えばいいのかなって思ってさ」
 真顔で会えばいいだろう。







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